平出隆氏『鳥を探して』、脱ジャンルの大著です+宮沢賢治ゆかりの花巻と遠野まで

 厳寒や 夜の間に萎(な)えし 卓の花    (杉田 久女)

 まさに今の季節の句です。テーブルに活けた花が朝起きるとあまりの寒さで萎えてしまっている、というのですからよほどの冷気が下りたのでしょう。しかし「烈女」とも称されたという久女、花の生命を奪うほどの厳寒に対して、「わたしなら負けませんわよ」という無言の対抗意識を示しているかのよう。敗戦後すぐに57歳で亡くなりますが、最晩年は「精神分裂症」と診断されたそうです。

 双葉社というと娯楽本中心の出版社ですから、これまで一冊もご縁はありませんでした。ところが詩人の平出隆さんの新著はこの双葉社からの刊行というので虚を突かれた思いです。この『鳥を探しに』、ぶ厚いですね。本文は650頁以上、それも二段組です。表紙を「ひさぎ」「やまもも」といった植物の色彩細密画が飾りますが、「カバー装画 平出種作」というクレジットが読めます。このかたは平出さんの実のお祖父さん。本書の挿絵にもこのお祖父さんのスケッチが使われますし、それにお祖父さんの書かれた随筆や翻訳した文章までが引用され紹介されています。ただし、本書はいちおう小説?ですから、作中の名前は「左手種作」となっていますね。「ひだりて」という姓、これは無論平出=「ひらいで」という音韻を生かして変型させたもの。平出さんには、『左手日記例言』という名作詩集がありましたから、「左手」にはコダワるのでしょう(笑)。

 で、どうして双葉社なのか?無論実際の事情などは知りませんが、本作自体が双葉社が出す「小説推理」という月刊のエンターテインメント雑誌に連載されたものです。或る種の推理探偵小説、という見立てもあったのでしょうか。つまり「私」が生前には五回しか会ったことのない祖父「左手種作」という人物が何者であったか、それを探る物語とも言えるからです。森鴎外の史伝『渋江抽斎』のように、抽斎という人物を追いかけるその記録をひとつの物語に仕立てた手法が意識されたかもしれません。奥付を見ると、おや本作は「小説推理」の2004年12月号から2008年の8月号まで四年間ほど毎月連載されたのですね、道理でこのぶ厚さです。平出さんは当時はちょうど詩人伊良子清白の全集の編纂や清白の評伝執筆という大事業を完成させたところだったでしょうに、そのままいわば返す刀で本作の執筆に向かったようですね。いや大変な情熱です。伊良子清白の姿が、続いては祖父の姿に転位して?知的探索へと立ち向かう意志を奮い立たせたのでしょう。これは詩を求める意志でもあります。

 しかし、この大著、実に色んな要素を含んでいて、テクストとしてはなかなか実験性に富んだものと言えるでしょう。「私」によって解き明かされていく「左手種作」という人物は実に摩訶不思議な経歴です。明治25年に静岡の袋井に生れたもののなぜか小学校中退、その後、どういう経緯からか英語、ドイツ語、ロシア語、それにエスペラントを学んで、外国語で書かれたいくつもの紀行や探検記を訳します。戦後は九州で進駐軍相手の通訳をやったというくらい、語学力はあったのです。そして本書でもたくさん使われる水彩画や油絵も描いています。どうやら文学的というよりも博物誌的な興味が強かったらしく、随筆でも暮らした対馬に棲息する動物に関心を寄せています。このタイトル『鳥を探して』というのも、当時から幻の鳥とされていた対馬に棲むキタタキという珍種に向けられた種作の情熱を指すわけです。だから種作を主人公とする評伝と読んでもよいでしょう。

 そのいっぽうで、語り手の「私」とは、これはすなわち詩人の平出氏そのひとですから、エッセイの要素ももちろん入り込みます。一年間のサバティカル休暇を得て、ベルリンで過ごす時間のなかで、祖父種作のことを考え出すというくだりなどは、まさに随筆の文体。またそのベルリンの街を歩いて、関心を持つベンヤミンの旧居界隈を描くところはさながら前著『ベルリンの瞬間』同様の紀行文です。そして、「左手」家ならぬ「平出」家のいわばルーツを探りながら、一族郎党?について語り、自らの幼年体験を綴るのは、まったく私小説でしょう。(森市という名前で登場する「私」の父親、つまり種作の長男もいわば副主人公です。)そういう意味で見事な「脱ジャンル」のテクストですね。そしてそこに、先ほども言いましたが、種作が出版を望みながら当時の人脈ではどこにもツテがなく、遺品として残されたままだった翻訳原稿が断片的に挿入されます。そうした、種類の違う織糸で織り上げられたのが本書なのです。ま、平出さんの気持ちとしては、こうして死後何十年かがたって、翻訳原稿を活字化し、さらに絵画作品も紹介できるというのは、なによりの「じいちゃん」孝行でしょうね(笑)。二段組の650頁、こりゃあ読了するのに骨が折れそうですが、いや、全体は断片的テクストのパッチワーク。案外読みやすいです。(翻訳文にもたぶん詩人の筆が入っているでしょう。)そしてこんなぶ厚い書物だのに、そこに確かな〈詩〉を感じますね。お薦め、ですよ。

 さてもこうした労作に出遭うと、平素は怠けがちな当方も俄然執筆意欲が奮いたつのですが、明日から花巻に行ってきます。宮沢賢治のトポスであるこの地を実はまだ訪ねたことがないままでした。まさに厳寒の時期に訪問することとなりますが、昼のうちはしっかり防寒スタイルで賢治ゆかりの風土を歩き、夜はやはり賢治ゆかりの大沢温泉でゆっくりと温まります。岡村民夫さんから以前に頂戴してあった『イーハトーブ温泉学』、「温泉文学」として賢治を捉えた論集ですが、これを忘れずに携えてまいります。それから大書店の旅行書コーナーを渉猟して見つけた『平泉・遠野・盛岡散歩24コース』という山川出版からの一冊、これをガイドにご近所の遠野も歩いてきます。昨年夏の盛岡旅行以来、なんだか東北づいていますが、旅の収穫はまたここで報告いたしましょう。

 お別れの引用句です。このところは現代イタリアの思想家のアガンベンのことばかり引っ張り出すようで恐縮ですが、新宿ジュンク堂の思想コーナーには今は一番目立つかたちで彼の著作がどおんと並べられています。そのなかの一冊『幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源』を読んでいたら、アガンベンがエピグラフとして引いてあるのを見つけました。

「おお、数学者よ、そんな誤ちに陥るなかれ!
 霊には声がないのだ、声があるところは肉なのだから。」
                                                (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

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